ステージにかけ弘田三枝子の気迫と地元プレイ ヤーの気迫が交差しながら衝動を生む。凄いライ ブが収められたCD 「Mico・ジャズ・ライヴ・イン・北九州」
戦後の日本の音楽的価値観…。
いやもっと簡単に言うと、下手な歌手と上手な歌手が入り乱れていた昭和20年代から30年代に美空ひばりさんのような"別格歌手"が一目置く、若手の歌手がいたとしたら、弘田三枝子さんに違いない。
弘田三枝子は小学生の頃から米軍基地(キャンプを回り)、ジャズも唄っていたのだ。
米軍基地では"本物のジャズ"が日本のジャズメンに求められていたという話は言い伝えで聞いたことのある人も多いと思うが。
ジャズ・ヴォーカルというジャンルはないので、弘田三枝子という子供のシンガーがジャズを唄うとなると、それは面白みのあったステージであったであろうと想像はつく。
弘田三枝子が他の若手のポップスと違う点は、誰もが当時、聴いたら解かったはずだ。
コニー・フランシス、ヘレン・シャピロとの歌唱力が互角であったことに驚く。
日本語で唄ったとしても、歌唱力や持って生まれたパワフルさが、魂(ソウル)はストレートに伝わる。
この現象はある意味、異様な神がかり的なもので、これも理解できた人は弘田三枝子に一目置いたし、ファンであり続けたはずだ。
弘田三枝子が歌謡曲路線に変わった時、時代が変わったのだ。
こう真っ先に感じたのを覚えている。
「顔はどうでもいい。歌が上手いのなら」
こう思ったファンは多かったはずだ。
やがてテレビやマスコミから姿を消してしまった弘田三枝子。
ライブハウスや海外でジャズを唄っていたのだ。
1997年春。
弘田三枝子を北九州の小倉の「BIG BAND」
に招いて、地元の粒揃いのジャズプレイヤーとジャズ・ライブを開催した。
日本のジャズを唄うシンガーとの共演は散々
やってきた粒揃いのジャズプレイヤーが、ステージの2部から顔色が変わった。
「今までのジャズを唄うシンガーとは違う‼」と気合が入っていった。
このジャズライブが一つのキッカケになって、弘田三枝子と北九州の粒揃いミュージシャンの力によって、ジャズの日本における概念や、音楽界に「ドン‼」と一発、穴をあけてやろうという試みになった。
ジャズのライブを作る。
2日間の2ステージで一部二部構成で4回のステージで勝負をかける。
そのライブ録音の中からCD化する選曲を決める。
弘田三枝子も真摯に挑んだ。
この時の弘田三枝子もジャズメンも全員がある種の殺気だった凄さを持っていた。
それがステージに出たのは、収録曲9番目の「THIS IS SWING」。
これが競演であり、同時に共演であった。
このCDは正しくは市販に2000枚が即、完売になった。
追加で2000枚。
さらに2000枚で追加販売となった。
日本でジャズのCDが6000枚以上売れるとは、
ただ事ではなかった。
あのナベサダですら、4,5000枚がピーク。
この時の弘田三枝子が、最もパワーが、魂がこもって、生涯の中で一番、歌が最高に素晴らしかったと思っている。
こういう形のジャズのライブが日本でも行うことの出来たという話になるし、今は亡き弘田三枝子が最高にシャフトしたステージとして、いつまでもこの音源は残っていくだろう。
それが北九州で行われ、そして北九州で"事件"のように起こった"出来事"として、とても重たいCDである。
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