昭和の珍現象を回顧してみる

1960年初頭はアメリカやイギリス、フランスのヒット曲を日本人が日本語で歌ことに対して、あまり違和感はなかったし、日本語で歌っても"歌"として通用する世界が日本にはあったように感じる。

日本人が英国の歌詞で唄を歌う方が、俗に言う"カッコ付けて"とか、大して英語がしゃべれないのに"生意気だ"とか、聞く側を"バカにしている"とか、評価が厳しかった。
そんな時代が一変してしまうのは、ビートルズやストーンズが日本でも大ヒットしてからだ。

本場のロックを日本人では出来ない、という烙印が押されたようなものだ。
それ以前は、日本人向けに米国の歌手が日本語で歌う"唄"がヒットしまくった。
中でもその筆頭にあがるのが、コニー・フランシス。
1938年12月生まれ。だから今は82歳。
11歳の時にショーに出演。1955年に歌手デビュー。
1960年代前半にはヒット曲を連発させた。
コニー・フランシスが日本でウケたのは、英語の歌詞の歌と、日本語の歌詞をつけて歌う唄の両方があり、それも20曲以上もシングルやアルバムで発表したことが、日本のファンには珍現象であったこと。

有名な曲は
「ボーイ・ハント」「夢のデイト」
「大人になりたい」「かわいいベイビー」
「ヴァケーション」「想い出の冬休み」
「ダンケシェーン」…。
これらの唄は日本では弘田三枝子や中尾ミエ、藤ゆかりなどが当時歌う。
ラジオからはコニー・フランシスの日本語の唄が流れる。
相乗効果もあっただろうし、ティーンに受ける題名と歌詞の内容が、戦後の日本に"アメリカいいナ"旋風を巻き起こしたからだろう。

コニー・フランシスはイタリア系で、日本語をローマ字で読み覚えることが出来たので、日本語がうまく聞こえたことがあげられる。
これを企画したレコード会社は笑いが止まらなかっただろう。
ペギー・マーチ、ジョニー・ティロットソン、ジョニー・ソマーズ、ガス・バッカスらも、日本語で歌い、ヒット曲を作った。

65年になると、もうビートルズやストーンズ、アメリカのフォーク・ロックの波に前記した歌手は押し流されて消えていった。
ディランが日本語で歌ったらファンが嫌になるだろう。

ミュージシャンと歌手の色分けは、こんなところでも判別できる、ということだ。
クィーンやポリスも日本人受けの為(?)か、
歌詞の中に日本語を入れたりしたそうだが
、デーンと構えて欲しいし、日本人にそんなサービスは必要ない。
K・POPでも日本語を使って歌ったりしているが、余計なことはしないで純粋にK・POPを歌った方が評価は上がるのに。


さて、コニー・フランシスは当時、甘~い声で、日本の青少年に"色気"というものを唄を通じて教育したように感じる。

この色気に日本の歌手は"反発"して、清純ぽく歌った、と伝えられる。
参考までに「ヴァケーション」はコニーよりも弘田三枝子の方がシングル盤の売り上げは高かったのだ。

補足するとコニー・フランシスは声で想像するほどの"純"なイメージはなく、男を狂わせるヤリ手の熟女、というイメージを写真を見て受けた。

Oimachi Act./おい街アクト

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