「ブロンディ」のデボラ・ハリーを目指せ!

1976年1月に「パンク」と
タイトルされたロック誌が創刊された。

ニューヨークの
ビレッジのはずれにあるバワリー街にカントリーのライヴの店「CBGB」へ若者らが集まっていたのは73年、74年。

やがて若者のバンドが定期的にライヴを始めた。
トム・バーレインのテレビジョン、ラモーンズ、パティ・スミス・グループなどが。
そこにブロンディやトーキング・ヘッズ、シャーツ、ボイドイズの新しいバンドも増えだしていった。
 
76年にはジャーナリストや様々なアーティストが集まって前記した「パンク」が創刊され、「CBGB」に出演しているバンドの音楽を「パンク・ロック」と呼ぶようになった。
 
ニューヨーク・パンクというバンドの中で、商業的に最も成功したのは、ブロンディだったと言われる。

デビュー・アルバム「妖女ブロンディ」が
発売されたのは76年。
この時点では未完成の色彩が強いが、後にディスコ調のポップな曲「ハート・オブ・グラス」で、ブロンディは個性を獲得することになる。
 
ボーカルのデボラ・ハリーはデビュー・アルバムの時点で、すでに30歳を過ぎていただけに、ライヴ・ハウスの1バンドから脱出しようとするリアルな息づかいは、デビュー・アルバムでも伝わる。

「愛してほしい」は切なるデボラ・ハリーの願いだったのだろう。

「ハート・オブ・グラス」が収められたのは4枚目のアルバム。
1978年11月のことだった。

このプロデュースは"ポップの魔術師"と言われていたマイク・チャップマン。
エレクトロニックなディスコ・ビートの導入が成功。
英米共にNO1を獲得した。
 
ブロンディの融合、デボラ・ハリーのカリスマ性と、商業的にディスコ路線をあえてやることが、脱出への近道だったのだろう。

ニューヨークのパンク・ロックはアカデミックなどと言われていたが、バンドは売れなきゃアカデミックもクソもないことを彼らは、実践したのがよかったようだ。
 
誰にでもチャンスがあるということだ。
方法論や表現力さえツボを押さえていればだ。

Oimachi Act./おい街アクト

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