浜田省吾には苦労と才能と知恵がある。
アルバム「生まれたところを遠く離れて」の中での秀作「路地裏の少年」を聴きまくったのは、1976年。
浜田省吾の曲は、ロックやフォークというジャンルにこだわる必要のない唄だ。
こういった"くくり"をしたがるのは、日本のレコード会社で、生ギター一本でもロックは出来る、と僕は思っている。
この「路地裏の少年」は、浜田省吾の高校生時代の"学生運動"の心が含まれている。
この曲には浜田省吾がいずれ才能を開花させる、という確信を多くのファンは抱いていた。明らかにメッセージ・ソングで、歌詞の描き方が、そのあたりのミュージシャンよりズバ抜けていいからだ。
それから低迷。
1980年10月21日に発売された「Home Bound」を初めて聞いた時、浜田省吾はこれから、"売れる"という確信をつかんだ。
確かに、売れた。アメリカ録音でバック・ミュージシャンの”ロック性"も功を成していたし、「まるでブルース・スプリングティーンを彷彿させる」と、当時の「おいらの街」のレコード評に、絶賛した記事を書いた。これは本気で書いたのだった。
その後、福岡サンパレスであったコンテストのゲストに浜田省吾が出演していた。
デビューした当時から、ややつっぱた、強気な発言は変わっておらず、当時のフォーク・ミュージシャンがステージで立って唄わない。イスに座って唄うことを批判する発言をしていた。
吉田拓郎には、同じ広島のフォーク村出身だけに、気になる存在だったのか、余りウマの合うミュージシャンでなかったのか?…。批判の声として聞こえた。
そして「ラスト・ショー」。
すっかり貧しい少年が、ここではリッチになり学生運動をした若者も社会に出て、サクセス・ストーリーをやってみせた。
これからが大変だ~。そう思いつつ、浜田省吾には別れを告げた。距離の立ち位置で、何事かが過ぎた。
1986年9月4日に「J・BOY」が届いた。
この中の「AMERICA」が、浜田省吾の変化と、苦悩と、夢と、挫折と、日本の音楽業界の窮屈さ、…様々な思いが詰め込まれている。
が、実にいい曲だ。
この時に、アメリカのシンガーソング・ライターのジャクソン・ブラウンと親交が生じて、それ以降、"良き友"としての交流は続いているようだ。
日本のミュージシャンの中でも、浜田省吾の生き様は、スケールの大きな音楽人生であると思う。
聞いてみよう!浜田省吾の「AMERICA」を。
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