弘田三枝子の回想③ 「おいらの街」は北九州で無茶なことをすることこそが文化の発信になると考えていた。
日本人の歌手で最初にファンになったのが弘田三枝子。
この人の歌唱力だけは、僕が他にどんな音楽を好きになろうと、忘れることは出来なかった。
僕はデカいコンサートを2回主催している。
最初はイギリスの古楽器楽団「トレヴァー・ピノックとイングリシュ・コンサート」を戸畑の市民会館で主催した。
この頃の僕はクラシックが好きで、バッハや古楽器の音色に入れこんでいた。
北九州では難しいコンサートとは解かっていたが、なにがなんでも日本公演で来るからには、北九州に彼らを呼びたかった。
戸畑市民会館を8割、観客で埋めることができた。
チケットの売り上げが悪かったので、市内の中学、高校のブラス・バンドの皆さんを招待するという形で空席を埋めようとしたのだ。
おそらくチケットが200枚くらいしか売れず、700万円以上の赤字が出た。
次の年に九州厚生年金会館にドイツ・バッハ・ゾリスデンの「ブランデン・ブルグ協奏曲3番・4番・5番」のコンサートを主催した。
会場は1800人が入れる。
こちらもチケットの売り上げがよろしくなかったので、やはり北九州市の中学校、高校のブラスバンドを招待した。
赤字は400万円ぐらいであった。
こちらのコンサートは当時、九州厚生年金会館と言われていたホール。
このドイツ・バッハ・ゾリスデンのコンサートが会場史で最も素晴らしいコンサートだという評価を受けた。
やりたいものはヤル。赤字が出てもやるのが北九州のタウン誌。という、とんでもない責任を背負っていた。そして「おいらの街」に何らかの形で赤字は還元される、という信念でイベントは行っていた。
こうした経験があったから、ある日、「あの弘田三枝子は今、何してるのかな?」、東京の事務所に連絡してみよう、という話が動きました。
今日は弘田三枝子の「ワン・ボーイ」を。
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