今観る「イージー・ライダー」は、小説のように感じる。
アメリカン・ニュー・シネマの代表的作品として知られる「イージー・ライダー」は、1969年の作品。
監督はデニス・ホッパー。音楽担当がザ・バーズ。
2人のヒッピー役に名優ヘンリー・フォンダの息子、ピーター・フォンダとアンチ・ハリウッドであったデニス・ホッパーが。他にジャック・ニコルソン、フィル・スペクターとヒト癖ある役者が出演している。
低予算で大ヒットしたことから、アメリカ映画の流れが変わった(変えた?)ニュー・シネマ。
アカデミー賞他。ヨーロッパでも評価が高かった。
映画はアメリカの若い世代と、保守的な南部の差別的な大人を絡ませ、アメリカの根底にある建て前と本音の矛盾、不条理を若者、つまり弱者側の視線で描いている。
感動的とか劇的なストーリーではない。
ドラッグと当時のヒッピー、そしてハーレー・ダビットソン、そしてROCKが全篇に流れ、若者と南部の差別的で保守的な"大人"を群象として捉え、対比させて当時のアメリカを描いた。
これは単なるロード・ムービーではない。
メキシコから、大自然と無力な2人のライダーの関係を美しく描いたり、南部の町とそこに住む大人との対比は、これまた悪と善、善と悪のように描いていく。
映画を観る者は、若者を善と捉えるであろうし、いつの時代も保守的な大人を善ではないと考える。
この構図は60年代から今に至るまで、継続されている。変革は実は起こっていないし、アメリカの保守化はさらに進んでいる。
この映画は今観ると、この時代から将来に向けての警告でもある。
時代は変わっているようで、変わらない。
いつの時代も若者は保守的な凶器により殺されていく。それはまるで戦地で起こっている、無意味な死のように…。
アメリカン・ニューシネマから、いわゆるジョン・ウェインのような保守的な強者は排除されていった。
アンチ・ヒーローであるはずの弱者の側から見た社会が描かれていく。
「卒業」「バニシング・ポイント」「ローリング・サンダー」「俺たちに明日はない」「カッコー巣の上で」と。
日本ではニューシネマの影響を受けた監督が作品を作っていったが、今ひとつ理解されなかった。又、作品の着眼そのものも陰湿で…。
「金もあるし、自由の身だ」と、デニス・ホッパーが語る。
しかし答は『でも、自由にはなれない』と語られている。
「イージー・ライダー」は何度か観ることにより、新しい教訓を知ることのできる作品と、僕は思う。当時のアメリカも今のアメリカも、基本的には変わっていないのだ。
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