編集長の自説。提灯記事の怖さを問う。
ネットの商品の提灯記事を書くことにより、商品が無料になったり、原稿料を払ってもらえる風潮は、今に始まった話ではない。ネットの記事は信じるな、嘘がはびこっている、と言ったとしても、危機感を持つユーザーは微々たるもの。こんな時代になったのは、フリーペーパーが蔓延りすぎた結果による。広告料金を払えば、どんな店でも記事らしい広告を掲載出来る。しかも原稿を書くのが、店のオーナーであったり、店のスタッフであったりしたものだから、取材能力を必要としない印刷物の文字に、読み手も書き手もマヒしてしまった。その空白の期間は長過ぎた。結果、自称だけのライ ター
が、はびこり過ぎてしまった。この負の時代の慣習は、当時の若者の活字離れや、創作意欲の衰退にも影響を与えたはずだ。北九州にも沢山のフリーペーパーがあったが、ネットに圧される形で終息した。が、取材をしないで文字を羅列するような、いい加減さは見事にネットに継承され、素人の読みの浅い文章による軽薄な世界は、とがめられることなく、誹謗、差別、中傷的なモノとして蔓延している。
が、はびこり過ぎてしまった。この負の時代の慣習は、当時の若者の活字離れや、創作意欲の衰退にも影響を与えたはずだ。北九州にも沢山のフリーペーパーがあったが、ネットに圧される形で終息した。が、取材をしないで文字を羅列するような、いい加減さは見事にネットに継承され、素人の読みの浅い文章による軽薄な世界は、とがめられることなく、誹謗、差別、中傷的なモノとして蔓延している。
フリーペーパーは、北九州のカルチャー、芸術を知らぬうちに阻害していたことが今になり、弊害として表れていることを痛感する。
先日、副編集長の鶴田氏が取材をして執筆した記事に関して、とある施設から修正の指摘があった。取材記事と広告記事の区別が解っていない故の、指摘であったのだろうが、この味噌糞の判別が出来ない社会人が、しかも文化施設に勤務出来ていることが恐ろしくなった。上げ膳、据え膳をすることが芸術に対する理解力であるとするなら、個人の視線、思惑、感じ方、言論は、理解力ではないのか? 人間は、自分が生きているから、悲しんだり、笑ったり、怒ったり、苦しんだり、人を愛したり、世の中の不条理と戦ったりする。微々たる力しかなくても、だ。
好きでもない人に、好きと言えないことは、間違いではないし、当たり前のことだ。それさえもダメ出しする、危うい時代になっているのか? 活字離れの恐ろしさとは、本が売れないは二の次で、人間がアイデンティテイを失うこと、これが一番の恐怖である。
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