小倉の造兵舎の知る限りの話を

今の大手町はマンションが立ち並び、アルモニーサンク北九州ソレイユホール、大手スーパーがあり、豊かな生活感溢れた住宅街だ。話は昭和40年に逆のぼる。国立北九州高専がこの大手町に残っていた、旧造兵舎の建物を仮校舎として開校した。場所は現図書館の裏側になる。木町から歩いて大手町出口になるのは、旧警察署があった交差点の地。当時はバスも走っていない。木町から歩くと20分近くかかり、高専へと歩いた。途中、金田からの道は、現安川電機を右に見て、ソレイユホールの地点で、木町からの通りと出合う。「造兵舎跡地」と、当時の人はその地を呼んだ。窓ガラスが割れた、コンクリートの大き な建物が立ち並ぶ。戦時中の面影がやたら強い 地域だった。 小学生2年の頃、木町に住む友達と、この造兵舎の建物で遊んだ。昭和27年頃迄は、木町側に進駐軍の入口門があり、M.P.が立ち、一般人は入れなかった。そこに自由に入れることが出来たのは小学生になってから。昭和32年に、計算すると友達と遊びに行っている。「ここにはウランがある」「原爆作りよったから」「ウラン探そう」そんな会話をした。 さて、僕の住んでいた原町5丁目から大手町は近い。原町1丁目に住む友達の家も近かった。友達の家は敷地が千坪以上はあった中に建っていた家。敷地内には他にも家が4、5軒建っていた。その敷地内には防空壕が3つあり、その中で一番頑丈に造られた防空壕に入り、よく遊んだ。地階 2階で、 そこには湧き水が溜まり、ヒンヤリした空気と機械油の匂いがする。裸電球を点けないと、真っ暗で、そんな頑丈な防空壕のある家は珍しいと言われていた。 後になって知る。そこにはドイツ人が住んでいたことを。彼らは大手町の造兵舎で、なんと原爆の開発を日本人の科学者と共にやっていたドイツの科学者であったと。 小学生の時の「ウランの話し」と、つじつまがあった。 小倉の造兵舎で風船爆弾を作っていた話は知られているが。 米軍による空襲が始まると、軍部は米軍に知られていた造兵の核たる地を、小倉へと移した。 日本軍部が開発していた原子爆弾の完成を、小倉造兵舎で急ピッチでやり遂げようとしていた。
この話しに確証を得る発言を、ある人から聞くことが出来た。ニューヨーク・タイムズ紙が「日本の小倉にある造兵舎で原子爆弾が開発されている」と報道したのだ。その人の身内の方が当時、アメリカにいて新聞を読み、その人に知らせてきた話を聞いた。原爆は広島、そして小倉に。小倉の上空が前日の八幡の大空襲が余りにも激しく、次の日は上空に焼けた建物、真っ黒焦げになった馬の煙が暗雲となり立ち込め、視界が悪すぎて長崎へと行く。 ドイツ人が住んでいた敷地の裏手に、地蔵さんが奉られている舎がある。戦時中、ドイツ人はこの地蔵さんをどういう気持ちで眺めていたのだろうか。戦時中はドイツ人が沢山、住んでいたと記述された書もある。敗戦後、アメリカ人は日本にいたドイツ人には優しかったと書かれていたが、原子爆弾の研究者にも優しかった、とは書かれていない。北方の駐留軍跡地に自衛隊が入ってきた。その中には訳のわからない死体の山があったという。 

Oimachi Act./おい街アクト

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