パンク・ロックが生まれた背景は、AORに対する幻滅だった①

AOR(アダルト・オリエンタル・ロック)を振り返った時、このジャンルの音楽をROCKの衰退と考える人と、進化と捉える人が沈黙を保ちながら"共存"している。
 
AORのミュージシャンと列記してみよう。
 
ニック・デカロ、マイケル・フランクス、ボビー・コールドウェル、ボズ・スキャッグス、ルバート・ホームズ、ネッド・ドヒニー、マイケル&ストーミー・オマーディアン、デイビッド・パック、クリストファー・クロス、エアプレイ、ルバート・ホームズ、スティーブン・ビショップ、TOTO、……。
 
80年前後に一世を風靡したAORシーン。
 
それまで裏方に徹していたスタジオ・ミュージシャンの自己主張として、セッション・グループも作り、アルバムをリリースすることがAORの根底にある。
そしてもちろん売れることも。
 
それまでROCKであった、あのシカゴでさえAOR的なアプローチをすることにより、変質してしまった(消滅してしまった)。
 
まるで日本人の大人向けのために用意された曲のような感じがして、僕個人は腑に落ちなかったし、好んで聞く人のほとんどがギターを弾かない、バンド活動をしたことのない人だった。
 
AORを支えたミュージシャンを、今度は列記してみよう。
 
ゴードン・エドワーズ(b)、コーネル・デュプリー(g)、スティーブ・ガッド(ds)、エリック・ゲイル(g)、リチャード・ティーらが結成したスタッフは東海岸のミュージシャン。TOTOはボズ・スキャッグスのバックを務めていたミュージシャンの集合体。
 
有能なスタジオ・ミュージシャンによりセンスの良いプレイ。アーティストと同じように、誰がプロデュースで、誰がバックに参加しているかが、キー・ポイントになっていた。
 
日本でもこの頃、この影響を受けて、LAレコーディングをしたがるミュージシャンが増えていった。

尾崎亜美、チャー、河合奈保子(この人までが)、岩崎宏美、そして浜田省吾に矢沢永吉。
 
このAORとそれまでのROCKの区別、違いさえも解からなくなるほど、スタジオ・ミュージシャンの全盛期の時代があったことは、ROCKが商業ROCKになってしまったことを残念がる、本来のROCKファンには物足りなさは勿論、裏切られた気持ちさえしていたはずだ。
 
誰に裏切られたか? 時代であり、レコード会社であり、ミュージシャンであり、商業ペースであり、アメリカにであり、…。
 
この流れに逆らうかのように、自分の意志と
"良心"に従った歌で独自の世界を切り拓いていったミュージシャンには、敬服する。
 
ニール・ヤング、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、カーリー・サイモン、ジェームス・テイラー、フレッド・ニール、ティム・ハーディン、ローラ・ニーロ、ジャクソン・ブラウン、ボビー・チャールズ、ジョン・ブライアン、ザ・バンド、イーグルス、リトル・フィート、ドゥービー・ブラザーズ、オールマン・ブラザーズ・バンド、フリード・ウッド・マック、ブルース・スプリングスティーン、…。
 
大御所のボブ・ディランは我が道を行く。
右に同じく、元バーズのロジャー・マッギン、クリ
ス・ヒルマン、ジーン・クラーク、CSN、…。
 
こうした音楽事情から、ニューヨークからパンク・ロックが生まれ、これが大西洋を渡り英国へと飛び火していった。(続く)

Oimachi Act./おい街アクト

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