日本の遺産的音楽シリーズ
日本の戦後からの音楽史を僕なりに振り返ってみると、"遺産的"とも言える歌、シンガー達がいたことに気付く。
その中から選りすぐってみることにした。
民俗学的に興味尽きない歌あり、時代を象徴した歌、シンガーもいた。
日本がどうか今後、変わっていこうとも、歌は生物(ナマモノ)、シンガーも人様。大切にしなければなるまい。
感謝と尊敬の念を込めて始めることにしよう。
<日本の遺産的音楽シリーズ>VOL.1
一節太郎
「流し」という商売が昔あった。
ギターを背中に、夜の飲み屋街をねり歩き、飲み屋(スナック)に入り、一曲いかがですか?と、客からリクエストをもらい、ギターを弾きながら唄う。
一曲が300円とかの相場の頃は覚えている。昭
和40年代(1965年)まで「流し」さんがいた。
北九州では小倉の鍛冶町通りに何人かいた。旧若松市、旧八幡市、旧門司市にもいた。
ジューク・ボックスがスナックに設置された。そこから「流し」の仕事が減っていく。
今はカラオケがあるので、「流し」の仕事は成り立たない。
ジューク・ボックスを設置した方が店には利が得られる。
一曲30円とかで客がお金を入れる。
店のお姉さんがマイクをジューク・ボックスに差し込んで、流れる歌と一緒に唄う。
「流し」が商売が成り立ったのは戦後から約10年間だろう。
「ギターを抱えた渡り鳥」という映画もあったくらいだから、歌の好きな、そして歌手を夢見る若い者が全国から都会に集まって来ていた。
そんな時代、新潟県豊栄市出身で運の強い
「流し」の青年がいた。
一節太郎。1961年に作曲家、遠藤実の内弟子
1号になり、芸名を命名してもらった。"一節太郎"―、この芸名を本人は嫌がっていたと伝えられるが、浪曲調の声を作って歌手デビューできた。
1965年12月1日。日本クラウンの第1回新譜シングル・レコード、19枚の中の1枚が、一節太郎が唄った「浪曲子守唄」であった。
当初は大阪あたりからこの曲がジワジワと人気が出ていく。
この曲は、実は美空ひばりのために作曲されたのであったが、歌の途中で入るセリフ(台詞)を美空ひばり側が嫌い。セリフがないなら唄うという条件で話が戻ってきた。
が、遠藤実はセリフを外すことを嫌い、美空ひばりから唄が一節太郎に回ってきた。
この運の強さで、1999年までに200万枚のレコードが売れているという。長寿の大ヒット曲だ。
「浪曲子守唄」という映画も作られた。主演は千葉真一。
その後、「出世子守唄」が1965年に発売される。
こちらは40万枚の売り上げ。
「浪曲子守唄」のイメージが強烈すぎて、他の曲はかすんでしまった。
一節太郎の歌人生は「浪曲子守唄」まっしぐらとなった。
これだけヒットし、国民に愛された名曲も、NHKは一度も一節太郎に声もかけなかった。
歌詞に出てくる言葉が"差別的"という見解を曲
げなかった、日本の国営放送は。(それが逆差別というのだ)
差別的な言葉、単語の規制がいやに厳しくなってきている今の御時世。
そんなことで日本の伝統や文化や民俗学、さらに演劇、映画、民謡、歌、いわゆる大衆芸能を守っていこうとする気はあるのか?
とても理解できない。
「浪曲子守唄」の歌詞、セリフに出てくる士方、無学、飯場(はんば)…。これを差別的ということが逆差別になるのに。
「無学なこの俺を・・・」。この言葉、カッコいいじゃないか。「僕はエリートです」と言うより、男っぽいゾ。
この歌には戦前、戦後の日本の素顔が映し出されている民俗学的な価値ある"歴史"だ。
今年79歳。一節太郎さん、いつまでもお元気でて下さい。「浪曲子守唄」一節の一生は素晴らしいですよ。
今は新潟に戻り、カラオケの店「唱の舟」を経営し、故郷に恩返しをしているそうだ。
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