日本の遺産的音楽シリーズ②
日本の戦後からの音楽史を僕なりに振り返ってみると、"遺産的"とも言える歌、シンガー達がいことに気付く。
その中から選りすぐってみることにした。
民俗学的に興味尽きない歌あり、時代を象徴した歌、シンガーもいた。
日本がどうか今後、変わっていこうとも、歌は生物(ナマモノ)、シンガーも人様。
大切にしなければなるまい。
感謝と尊敬の念を込めて始めることにしよう。
<日本の遺産的音楽シリーズ>VOL②
三波春夫1923年の7月19日に新潟県三島郡に一人の男の子が生まれた。名前を北詰文司(きたづめ・ぶんじ)。
13歳で上京して浪曲師になる。
21歳の時に徴兵で満州に出兵する。
捕虜としてシベリアに抑留され帰国。29歳の年に浪曲師として復帰した。
この浪曲師、南篠文若(なんじょう・ふみわか)が、その後、日本の国民的大スターとなる三波春夫なのだ。
シベリア抑留の体験から、南篠文若は浪曲の作風が労働者の歌のような作品が多かったと言われるが、敗戦後の日本国民の大衆に「何が大切か」を真剣に考えて、大衆演芸、大衆芸能に作風を切り替えたと伝えられる。
こうして新生・三波春夫は1957年にデビューを飾る。34歳の時だった。
デビュー曲は「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」この時の衣装は白いタキシード。
彼の派手な所作や表現力の豊かさには白いタ
キシードよりも「着物」が良いと三波春夫の奥さんが提案。
当時、テイテクレコードから反対されたが、この年、浅草国際劇場公演の際に、初めて家紋を散らした袴姿で舞台に登場。
観客は割れんばかりの拍手喝采‼
これを機に、着物姿の三波春夫が誕生した。
浪曲の頃からの大胆活発なしぐさと歌で、彼の歌はよりドラマチックな"芸"としてさらに化けていったのだ。
浪花節と浪曲について書くなら、起源は約800年前、大道芸として始まったもの。
「浪曲」は明治初期に始まった演芸で、東京では「浪花節」と呼んでいた。
三味線を伴奏にした独特の節回しと語りで、物語を進める語り芸で、一曲が30分間にもなることが多い。
落語、漫談とともに日本の三大話芸のひとつ。
昭和初期には日本全国に約3000人の浪曲師が
活躍していたそうだ。
三波春夫の持ち前の実力と素質、資質とシベリアでの苦労。
もともとが新潟の貧しい生まれで、13歳で上京。そんな生い立ちもあった。大衆芸能とは?庶民の喜ぶ芸とは?そして自分に何ができるのだろうか?と自問自答の繰り返しがあったはずだ。
語りの上手さ、唄の上手さ、想像力、行動力は生まれ持っての才能でもあったが、ここ一番での開き直りのできる怖いもの知らずの度胸の良さも、苦労して取得したと思われる。
人がやらないことを、やれる思い切りの良さ。芸を信じる、愛する者のみができるマニアックな世界。これが三波春夫の魅力だ。
有名な「お客様は神様です」の言葉。
これは「お客様を三波さんはどう思っていますか?」の質問に、「お客様は神様です」とズバリ答えが返ってきた。
その時から、この言葉も三波春夫のものになってしまった。1961年の年の話だ。
その後、「東京五輪音頭」、「世界の国からこんにちは」を唄い、国民的大スター三波春夫は不動のものとなる。
※日頃から、愛読家で、執筆活動を行い、勉強を怠ることがなかった話は、有名である。
そうして1975年、昭和50年の暮のNHK紅白歌合戦の男性白組のトリとして登場‼
三波春夫作詞作曲の「おまんた囃子」を大披露してくれたのだ。
♬東京のお方もソレソレソレソレ
名古屋のお方もソレソレソレソレ
浪花のお方もソレソレソレソレ
新潟弁で「あんたたち」の方言が「おまんた」。
で地元の祭の為に、三波春夫が作詞・作曲した。
「おまえさん」→「おまはん」→「おまん」→…
HOUSE「おまんた囃子」まで作り、最後まで活動的に芸の道に生きた三波春夫は、この人こそ神様だ。
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