日本の遺産的音楽シリーズ③
日本の戦後からの音楽史を僕なりに振り返ってみると、"遺産的"とも言える歌、シンガー達がいことに気付く。
その中から選りすぐってみることにした。
民俗学的に興味尽きない歌あり、時代を象徴した歌、シンガーもいた。
日本がどうか今後、変わっていこうとも、歌は生物(ナマモノ)、シンガーも人様。大切にしなければなるまい。
感謝と尊敬の念を込めて始めることにしよう。
〈日本の遺産的音楽シリーズVOL③〉
アイドルの元祖は南沙織だろう。
沖縄が日本にアメリカから正式に返還されたのは、1975年5月15日。
僕が東京にいた1972年には、すでに沖縄から若い人達が沢山、東京に進出してきていた。
僕が働いていた中野区の珈琲専門店にも、沖縄の高校を卒業した女の子たちが数人、アルバイトをしていた。
沖縄に対する同情的な"本土的思惑"は、彼女たちにはまるで必要なかったのを覚えている。すっかりアメリカン・ナイズされ、明るく、ケロリとポジティヴに生きている姿は、僕に少なからずカルチャー・ショックを与えた。
その当時の東京の女子高生も、北九州の女子高生に比べて、大人びていたし、異性に対しても積極的で、警戒心や奥ゆかしさを開けっぴろげにしていたのに驚いたが、沖縄の女の子たちは、東京の女の子以上に自由開放的で、アメリカが沖縄を変えてしまったのだ、と思うしかなった。
すでにその当時、アイドルの元祖といわれ、現在のアイドルのルーツともなっている南沙織がデビューしていた。
南沙織、天地真理、小柳ルミ子の3人娘。
東京オリンピック以降、急速に普及したカラー・テレビは、そんなアイドルの魅力を伝える最大の武器として、以降もテレビはアイドルを生み出していった。
南沙織はその中でも沖縄出身であり、英語が喋れるし、南の国の女の子らしく小麦色の肌、真黒なストレート・ヘアー、ミニ・スカートからスラリと伸びた足。
デビュー曲「17歳」は彼女自身のイメージをそのまま歌にしたような曲で、歌手として唄っているというより、彼女が自分自身の魅力について唄っているような感じを与えた。
アイドルの定義が、歌唱力よりもルックスとしての魅力が重んじられるように変わり、歌を聴いた時にどんなに歌がウマくなくても、歌以外のルックスの方に目が魅かれていくこと、これがアイドルの定義となった。
追い打ちをかけた浅田美代子のデビュー。アイドルは歌が下手でも構わない。
アイドル=(イコール)決して歌がウマくない、というイメージがついてしまった。
本来は歌が上手でも、歌以外の魅力があればアイドルになれるしで、シンガーや歌手とはまるっきりニュアンスが違うのがアイドルだ。
その後のアイドルは「スター誕生」という超人気アイドル発掘番組が、1971年10月に放送開始されたことが拍車をかけ、山口百恵、桜田淳子、小泉今日子など、日本中に大旋風を巻き起こし、そのアイドルの数は膨れ上がることになる。
こうしたアイドルが70年代の初めに市民権を得て、やがて力を失ったのが85年に登場したおニャン子クラブ。
ここまで素人感覚がはびこり、台本もろくに読めない少女たちが社会現象のようにテレビに出てくると、アイドルというよりバカらしいキャラクターの学芸会のようで、"アイドル"という言葉に何の意味も魅力も内容も(カルチャーなんて皆無だし)失せてしまい、その言葉そのものも死んでしまっていった。
ここでアイドルが終わった。
それはテレビというバカ臭いメディアが70年代の初頭にアイドル時代を作り、そして85年のおニャン子でテレビ自体がアイドルをつぶしてしまうということになり、アイドルは社会から消えていった。
アイドル全盛の頃を知る人には、今のAKB、他、なにがやりたいのか?なにをやっているのか?どうでもいい、という意識しか働かない。
テレビは普及時、演歌、歌謡曲らによって支えられ成長した。
が、テレビは音楽界全般にかけていうなら、音楽の世界に、日本のカルチャーに豊かさを何のもたらせなかった。
テレビはジャーナリズムが皆無。
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